
七宝山 安楽寺は空海の修行寺ではありませんが、大師自らが彫った石仏が安置され、所縁の深いお寺です。
弘法大師〜修行後の空海〜
大同元年に唐より戻ってこられた弘法大師は、京の都に向かう途中、御弟公真雅公を御供に滝宮の菅原氏に嫁がれた妹公をお訪ねになりました。
その道中で立ち寄られた垂水村では日干に苦しみ悩んでいた村人達の姿がありました。これを見て弘法大師は「守護国界主教調和風雨成熟五穀経(雨乞いの祈祷)」を法施されたのです。
すると、不思議なことに、その村全体が潤ったのです。
七宝山安楽寺の建立
人々は、大師に懇願しお寺を建立していただきました。そして「七寶山守護国界院安楽寺」と名づけられました。
右には万福寺、左には常徳寺を建て、安楽寺には「水天龍王像」を刻した彌陀三尊像、万福寺には佛作の「十一面観世音」、常徳寺には唐の長安にあった青龍寺の慧果(けいか)和尚由来の不動明王が安置され僧綱三人を置かれたのが当寺の始まりと言われています。
戦国の時代を経て
その後も、代々、垂水神社と共に、垂水村の繁栄に寄与し荘厳な七堂伽藍を備える由緒ある讃岐の名刹として国家の安泰に貢献してきたのですが、戦国時代には長曽我部軍の排佛の災に遭い、伽藍は跡形も無く焼け落ちたのです。
多くの仏具も盗難に遭い、万福寺、常徳寺と共に廃寺となっていました。
尼等による再建
元文のころには尼寺となっていた當庵の貞印襌尼等によって大師堂再建を発起されたのです。障害が多く、再建が叶ったのは明和三年、続いて弘法大師が自ら彫った金剛力士を収める門が完成したのです。
その後も幾度かの修復を経て現在に至っています。
長い歴史の中での老築化
当寺では現在、ご本尊に弘法大師が自ら彫った金剛力士を奉っております。その甲斐あってか、この地域でもひどい水不足に深く悩まされること無く、平穏な生活が護られております。
そんな中、この当寺の由来を深く知り、気に留めていただける方も少なくなってまいりました。また、大師堂として再建された本堂も老築化が目だっております。
歴史を見ましても、廃寺になり住職不在の時期があったことなど苦難の尽きない当寺ですが、大師所縁の寺を存続して行く為にも、祈祷、巡礼同伴と皆様の信仰にお力添えしております。