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土砂加持・柴燈大護摩

第41番霊場 稲荷山 龍光寺(いなりざん りゅうこうじ)

 

 大同2年(807)初牛の日、弘法大師がこの地を巡錫された時、白髪の老人が稲を荷って大師の前にあらわれ「我、この地に住み、仏法を守護し、諸民の利益せん」といわれ姿を消した。

 大師はこの老人こそ稲荷神社の化身と感得し、五穀大明神の尊像を刻み、堂宇を建て稲荷山、立光寺と名づけ本尊十一面観世音菩薩を祀り、四国霊場の総鎮守とされた。

 元禄年間当時、垣応住職時代に他の寺とまぎらわしいということで、現在の龍光寺と称すようになった。

 

第42番霊場 一?山 仏木寺(いっかざん ぶつもくじ)

 

 大同2年(807)この地を巡錫されていた弘法大師は、牛をひいた老人に出会い、しばらく行くと楠の大樹の梢に一つの宝珠が光を放っているのを見つけた。

 この宝珠は大師が唐で修行を重ね帰国に際し「有縁の地を選ばれるように」と三鈷とともに東に向けて投げた仏祖伝来の宝珠であり、大師はこの地こそ霊地とさとり、楠木から本尊、大日如来像を刻み宝珠を眉間に納め堂宇を建立され、一果山仏木寺と名づけ、草字体の心経と華厳経一巻を書写して奉納された。

 一時戦乱で荒廃となり慶安元年より宇和島藩の加護を受け再建された。又、当寺は牛の「お大日さま」と呼ばれ、親しまれ本堂の右に家畜霊塔が牛馬の守り仏として建立されている。

 

第43番霊場 源光山 明石寺(げんこうざん めいせきじ)

 

 住吉、若い乙女に化身した千手観音菩薩が、当山にこもり、人々に霊地と尊崇されましたが、寺伝によると欽明天皇の時代に同天皇の勅願により円手院澄法師行者が開創され、のち役の小角より五代目の寿元尊者が12坊を建立し在家仏教の修験道場として栄えた。

 弘仁13年(822)弘法大師が巡錫されたころは、荒廃して面影はなく、嵯峨天皇の勅願により堂宇を再建され四国霊場に定められた。

 建久5年(1194)には、源頼朝が命を助けてくれた池の禅尼の菩提を弔うために一堂を建て現光山を源光山と改められました。

 

 第44番霊場 菅生山 大宝寺(すごうざん だいほうじ)

 

 奈良時代の初期、百済から来た僧が十一面観世音菩薩の尊像をこの地の草庵に結んで安置され、この尊像を明神右京・隼人という狩人兄弟が発見し、この地に小堂を建て安置したのがはじまりと伝承されている。

 大宝元年(701)、文武天皇の勅願により年号をとって大宝寺と名づけられた。その後、弘法大師が比処で密教の修法を厳修されてから四国霊場に定められた。

  保元年間後白河天皇が病気回復を祈願され全快後、伽藍を再建し妹宮をこの寺の住職に任ぜられた。妹宮はこの地で他界され勅使橋や陵権現はその名残である。

 

 第45番霊場 海岸山 岩屋寺(かいがんざん いわやじ)

 

 弘仁6年(815)弘法大師が修行中に土佐生まれの法華仙人が山にこもり、不思議な神通力を持ち仙術を極めていたが、大師に献じて大往生をとげたと伝承されている。

 大師はこの地で「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとへん」と歌い、海岸山、岩屋寺と名づけ不動明王の木造と石像の二躰を刻み、木造は本堂へ石像は岩に封じ込み、この山全体を本尊、不動明王として護摩修法せられ、四国霊場に定められた。

 

 

 第46番霊場 医王山 浄瑠璃寺(いおうざん じょうるりじ)

 

 和銅元年(708)行基菩薩が、奈良の大仏開眼に先だちこの地に来られた時、ここを讃仏修業の適地として堂宇を建立し本尊、薬師如来を刻み、さらに日光、月光の両菩薩と12~将を刻んで安置され薬師如来の別名である瑠璃光如来から浄瑠璃寺と名付けられた。その後、弘仁3年(812)唐から帰国した弘法大師が堂宇を修復し四国霊場に定めた

 正徳5年(1715)の山火事で堂宇を焼失。その後、80年の歳月を経て現在の本堂が再建され、大師誕生千二百記念としてつくられた仏足石は、健脚、交通安全に霊験あらたかとあり「はだしでふみなされ」と書かれている。

 

 第47番霊場 熊野山 八坂寺(くまのざん やさかじ)

 

 寺伝によれば、この寺の創建は古く、役の行者小角の開基といわれ大宝元年(701)小千伊予守玉興公が寺を建て、のち文武天皇の勅願所として栄えた。当時、伽藍を建立するとき八ヶ所の山坂を切り開いて道路を作ったところから八坂寺と称え、裏山を御堂山または行逆山といいます。本尊阿弥陀如来は恵心僧都が刻んだものだといわれ、弘仁6年(825)弘法大師が四国霊場に定めた。

 末寺の一つの文殊院得盛寺があり、四国遍路第一号といわれる衛門三郎の菩提寺である。三郎には8人の子があった。みすぼらしい姿で托鉢する大師をののしった衛門三郎は、8人の子を次々と失う。みすぼらしい姿の托鉢が噂に高い空海と知り、四国巡礼の旅に出るが阿波の焼山寺で倒れる。その時、通りかかった大師に許しを得る。大師は8人の子の塚を建て菩提をとむらったといわれる。

 

 第48番霊場 清滝山 西林寺(せいりゅうざん さいりんじ)

 

 天平13年(741)聖武天皇の勅願により行基菩薩が堂宇を建立されたのが始まりといわれる。大同2年(807)に弘法大師がこの地を巡錫され、現在地に伽藍を移し再興され、自ら十一面観世音菩薩を刻み安置され四国霊場に定められた。

 寺の近くに大師ゆかりの「杖の淵」がある。日照りに悩む村人達のために錫杖で地面を掘ったところ清水が湧き淵になったといわれる。この寺の仁王門前には「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と歌った高さ2メ−トルほどの正岡子規の句碑がある。「ていれぎ」とは大葉種清花のことで、刺身のツマにする藻で天然記念物である。

 

 第49番霊場 西林山 浄土寺(さいりんざん じょうどじ)

 

 寺伝によれば天平年間(729〜748)に恵明上人が開創され、本尊、釈迦如来は行基菩薩の作と伝承されている。その後、弘法大師がこの地を巡錫され伽藍を再興され四国霊場に定められた。

 津久3年(1192)には源頼朝が家門の繁栄を祈り堂塔の修理に力を注ぎ、六十六坊、末地7等を有す大寺として栄えていたが応永年間の兵火で焼失。文明14年(1781)には領主、河野道宜によって再建された。現在の本堂は、そのときのもので唐様式の代表作として重要文化財に指定されています。

 

 第50番霊場 東山  繁多寺(ひがしやま はんたじ)

 

 天平年間(749〜756)に行基菩薩が本尊、薬師如来を刻み、安置したのが始まりで孝謙天皇の勅願所であった。弘仁年間(810〜822)に弘法大師が留錫して修行され四国霊場に定めた。その後、源頼義が再興し、弘仁2年に後宇多天皇の時代に聞月上人が勅命をうけ、当時の国難、゛豪古末襲゛の退散祈願を行ったと伝承されています。

 応永元年(1394)住職も後小松天皇の勅命で京都泉涌寺26世快翁宗師がこの寺に移り16弁の菊の紋章瓦が残されている。又、この寺は時宗の開祖である一遍上人が学問の修行の寺として「となふれば仏もわれもなかりけり、なみだぶつ なみだぶつ」と称名念仏の世界に入り、三部程を奉納したり修学されたという。

 

 

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