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土砂加持・柴燈大護摩

第61番霊場 栴檀山 香園寺 (せんだんざん こうおんじ)

 

 用命天皇の御代、天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が堂塔を創建。

 天正年間(729〜748)に行基菩薩が留錫され、大同年間(806〜809)弘法大師が巡錫され、門前で身重な婦人が苦しんでいる所へ通りかかり、秘法の加持をされ婦人は元気な男子を安産。大師は唐から持ち帰った大日如来の金像をご本尊の胸に納め、栴檀の香をたいて、17日間護摩修法され「安産、子育て、身代わり、女人成仏」の四誓願と祈祷の秘法を寺に伝え、四国霊場に定められた。

 修行姿の大師が左手で赤ん坊を抱き、やさしくあやす像が祈念堂にある。「子安大師」の由来になった。

 

第62番霊場 天養山 宝寿寺 (てんようざん ほうじゅじ)

 

 天平年間(729〜748)聖武天皇の勅願により、伊予一国一の宮の法楽所として建立され、当時は金剛宝寺と呼ばれていた。大同年間(806〜809)弘法大師がこの地を巡錫され十一面観世音菩薩を刻み本尊として四国霊場に定められた。寺は、再三、洪水の被害を受け、天養元年(1144)に再建され、天養山、宝寿寺と改称された。

 天正13年(1585)秀吉の四国政略の争乱によって荒廃し、寛永13年(1642)四国遍路の行者、宥伝上人によって再興されたが、明治の神仏分離令で廃寺となったが、明治10年(1877)に大石龍遍上人が再建するという複雑な経緯をたどっている。

 

第63番霊場 密教山 吉寺 (みつきょうざん きちじょうじ)

 

 弘仁年間、弘法大師ご巡錫の時、この地より光を放つ桧を発見され堂宇を建立し、桧の霊木で本尊、毘沙門天を刻み、吉祥天と善膩師童子を脇士として三躰を刻み、四国霊場に定められた。昔、寺は坂元山にあり広い寺域に21坊を持つ大寺であったが、天正13年(1585)、秀吉の四国征伐の折、兵火にかかり全焼。その後、万治2年(1659)に桧木寺と合併し、現在地に移って再建、密教山、吉祥寺と称すようになった。

 四国八十八ヶ寺のうち毘沙門天を本尊にしているところは当寺だけで「米持ち大権現」と呼ばれ農民の信仰が篤く、正月三日の初会式には餅をお供えにくるため゛餅つかずの寺゛といわれる。

 

第64番霊場 石鎚山 前神寺 (いしづちざん まえがみじ)

 

 天武天皇の御代、役の小角が石鎚山上で修行中、釈迦如来と阿弥陀如来が出現し、人々を救済するために蔵王権現を感得されたので、尊像を刻んで修験道場の大本山とした。その後、上仙道人が山頂への道を切り開き桓武天皇が病気の時、勅使を石鎚山につかわして祈願平癒されたので、天皇は石鎚山のふもとに七堂伽藍を建立して金色院、前神寺と号した。

 石鎚山は古来より修行の霊地であり、弘法大師は二度登られている。大師はその後、さらに四国霊場開創のとき来錫され、求聞持法を修行され21日間断食又、護摩修法せられ四国霊場に定められた。

 

第65番霊場 由霊山 三角寺 (ゆうれいざん さんかくじ)

 

天正年間(729〜748)に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創されたと伝えられており、弘仁6年(815)弘法大師が本尊、十一面観世音菩薩を刻み安置し、境内に三角の護摩壇を築いて、二十一日間、国家の安泰、万民の福祉を祈念して隣伏護摩の秘法を修行され、四国霊場に定められた。

 四国八十八ヶ所の中でも「伊予の関所」と呼ばれ、本尊は開運厄除けの観音、安産子安」観音といわれ、霊験あらたかです。

 伊予「菩薩の道場」から讃岐「涅槃の道場」へとまいります。

 

第66番霊場 巨鼇山 雲辺寺 (きょごうざん うんぺんじ)

 

  弘法大師16歳の時、大同2年(807)嵯峨天皇の勅願により本尊、千手観世音菩薩を刻み、仏舎利と毘虜遮那法印を納め七堂伽藍を建て七仏を供養され四国霊場に定められた。鎌倉時代には十二坊、末寺八ヶ寺を有し、阿波、伊予、讃岐の関所でもありました

 天正時代(1573〜1591)土佐の長曽我部元親が四国制霸の野望をもやし、まず当寺を攻め、本堂を残す他の堂塔を焼失したが四十八代住職、後宗坊に「お主の器量なら土佐一国で充分」と忠告されたと伝承されている。その後、蜂須賀公の勅願所として再建され、今日に至っている。

 雲辺寺は、海抜九百十一メ−トルの山頂にあり、四国の高野山とも呼ばれた。霧がかかり、雲につつまれたようになっているため雲辺寺と名づけられた。今はロ−プウェイがつき、便利になった。

 

第67番霊場 小松尾山 大興寺 (こまつおざん だいこうじ)

 

 弘仁13年(822)嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が熊野三所権現鎮護の霊場として開創され、本尊薬師如来を刻み、安置し四国霊場に定められた。その後、寺運は栄え、真言、天台の二宗によって管理され、真言二十四坊、天台十三坊もあって顕密二教の修行、勉学の道場として栄えていたが、天正年間に四国統一を計る長曽我部元親の兵火にあい本堂と本尊を残すだけとなった。

 慶長年間(1596〜1613)に再建され、境内中央に本堂が建ち左側に真言宗の大師堂右側に天台宗の大師堂があり、四国霊場中一寺に二宗の大師堂があるのはこの寺だけである。

 寺宝として、約六百年前藤原経朝が病気平癒の礼額として奉納した。大興寺の扁額があります。地元では「小松尾寺」と呼ばれ親しまれている。

 

第68番霊場 七宝山 神恵院 (しっぽうざん じんねいん)

 

 大宝三年(703)法相宗の僧、日証上人が修行しているとき、西の方の空が鳴動してあたりがうす暗くなったので、海辺に出てみるとはるかかなたの海上に七彩の光を放った一隻の神船が浮かび、船から琴の音が聞こえ「われは八幡大明神なり、宇佐より来たるこの地の、風光妙なり、仏法守護のためこの山の八葉の霊峰にとどまらん」という声が聞かれ、村人とともに神船琴を山上に引き上げて、社殿を作り奉安し琴弾き八幡と号したのが始まりである。

 大同二年(812)弘法大師がこの地に巡錫され、八幡宮の本地仏阿弥陀如来を描き本尊として安置され四国霊場に定められた。その後、明治の神仏分離令によって、本尊は観音寺の西金堂に移されたため一つの境内に二つの礼所がある。

  

第69番霊場 七宝山 観音寺 (しっぽうざん かんおんじ)

 

 大同年間、日証上人によって開創され、神宮寺、宝光院と称され、大同年間(806〜809)に弘法大師が巡錫され、聖王観世音菩薩の尊像を刻み安置し、七宝山観音寺と改められ四国霊場に定められた。その後、弘法大師が第七世となられ、平城天皇の勅願によって七堂伽藍を建立、さらに当山の四方に四十七墓の仏塔、西金堂、中金堂、東金堂、など次々と建立し、成就された。

 寺歴が古いだけに貴重な文化財も多い。室町初期のもので朱の色もあざやかな金堂(本堂)は重要文化財である。また鎌倉時代のもので絹本著色琴弾八幡本地仏像、絹本著色不動二童子像ともに重要文化財である。

 

第70番霊場 七宝山 本山寺 (しっぽうざん もとやまじ)

 

 大同三年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が鎮護国家のために一夜にして本堂を建立し、本尊、馬頭観世音菩薩、脇侍に阿弥陀如来を刻み、安置され四国霊場に定められ、当時は七宝山、持宝院長福寺と称していた。その後、寺は栄え七堂伽藍を有し、二十四坊を数える四国随一の巨殺であった。

 天正年間(1573〜1591)に長曽我部元親の兵士が当時に攻め入ろうとした時、住職が立ちはだかり、一刀のもとに住職を斬りつけたが住職は倒れず、一人の兵が本堂に入り、、開いた厨子の中で阿弥陀如来が血をしたたらし立っていたため驚いて、武士は境内から退き伽藍は焼失をまぬがれたといわれ、「太刀受け阿弥陀如来」といわれるようになった。久安3年(1147)仁王門が建立され、平安2年(1300)の建築で七間四面の堂宇は国宝建造物の指定をうける。

 

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